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蟻たちの夜
普段は夕ご飯を作り終え、子どもを風呂に入れると体中の力が抜けてしまって、子どもを寝かしつけながら眠ってしまうことが多い。朝まで起きることなどほとんどないが、どうした加減か夜中にはっと目が覚めてしまうことがある。

勿体ないので、しばらくは寝ようと努力する。努力しても眠りのふちにうまく足を踏み入れなさそうなときには、もうあきらめてベッドヘッドの明かりをつけて、本を開く。あるときには、わたしの好きな雑誌monkyのジャック・ロンドン特集の号のなかの犬の小説を読みだしたら止まらなくなり、しらじらと夜が明けてしまったこともある。

普段寝ていて気付かないが、夜にもいろんなものが動いて、音を発していることに気づく。窓が鳴る、がたっという音。風の音。遠くに走り去る車の音。そのほかよくわからない音。

布団をかぶってじっとしていると、自分自身も夜の一部になったようだ。窓の外に何か物音がするとすこし怖くなり、足先を布団から出さないように気を付ける。3時半ごろ新聞配達のバイクの音が聞こえたら、もう夜はおしまい。闇はうすずみになり、やがて見慣れた朝がやってくる。

〇蟻たちが砂粒ひとつひとつ運ぶ歩みの音の鳴りやまぬ夜 美衣
 
名前
〇たんぽぽ組園児名簿の名前にはゆ、る、み、あ、の、ま、も丸き字多し  美衣

末っ子の保育園の園児名を見ていて、丸い文字の名前が多いのだなと思って詠んだ一首。
親はそれぞれの思いを込めて名前をつけるだろうが、その時代の空気というのものがやはり共通のものとしてあるのだろう。

名前と言えば、わたしは子どものころに自分の名前があまり好きではなかった。
何よりも、まず正しく読んでもらえない。学校などで先生にたびたび読み方を尋ねられるのがきまり悪かったし、間違えて読まれて(「みえ」という名なのだが、「みい」と読まれることが多かった)まわりの子にくすくす笑われるのはさらに嫌だった。

しかも名前の由来がふるっている。母はずっと女の子が生まれたらつけようと思っていた名前があったそうだのだが、いざ生まれてから調べてみると、その名前の画数が悪かった。慌てて画数の良い名前を考え、何しろ出生届の提出期限があるものだから、急いでつけた。届けを出したあと、もう一度画数をよくよく調べてみたらそれほどよくもなかったらしい。

そんなわけであまり好きでなかった名前だが、今は気に入っている。読み間違えられるのは、今でもしばしばだが。

「赤毛のアン」の中で「もし薔薇がアザミという名前だったら、同じように香らないと思うわ」というセリフがあったと思うけど、もし私が違う名前だったら、違う人生を歩んでいたような気がしてならない。
今の名前はわたしにとてもしっくりしていると思うけど、それがぴったりの名前が付いたせいなのか、わたし自身が名前のようになっていたのか。両方のような気がする。
 
すっぱいもの、あまいもの
食べ物の好みは、かなり生まれたときに決まってしまっているのではないか。子育てをしていると、そんな気がしてならない。

我が家は子どもが三人で、みな男の子でご飯もみな同じようなものを食べさせたのに、と首をひねることがある。食べ物の好みが似ているのは、私と長男、次男、三男は夫に似ているようだ。

顕著なのが、すっぱいもの。次男と三男は、梅干しやらピクルスやらが大好きで、「ねえ、この宿題やったら梅干し一粒食べていい?」と聞くくらいである。わたしはといえば、梅干しはなくても平気。おにぎりの具も、梅干しよりも鮭や昆布の方が好みだ。長男も同じで、梅干しなんてなにがいいの?という具合だ。

三男が離乳食の頃、白粥をほんとうに嫌がったのには驚いた。食欲の旺盛な赤ん坊だったのに、白粥だけは心底いやそうな顔をして向こうに押しやった。粥が嫌なのかと、少し大きくなったら普通のご飯をやってみたが、やはり同じだった。一方、パンは大好きで離乳食のころなのに食パンを一度に2枚も3枚も平らげた。

三男が白いご飯を好まないのは今でも一緒だが、炊き込みご飯や味付きごはんは大好きで、要は濃い味好きなのだろうと家族は了解している。最近彼がほぼ独占して食べてしまったのが、ゆかり。今年の夏、わずか2キロばかりつけた梅干しと漬けた赤紫蘇をゆかりにした。これがたいそう気に入って、ゆかりをかけさえすれば、白いご飯を4膳も5膳も食べるのだから驚いてしまう。

好みが少しずつ違う兄弟がそろって好きなのが、あまいもの。パンケーキにメイプルシロップをかけるときなどは、かけすぎてしまわないように目を光らせないと、しばしば皿の上が大海のようになってしまう。

しかし、家族のなかのお母さんと言うものは「この子はこれが好きだ」とか「これを嫌がってちっとも食べない」などと困ったり、大変な気持ちになったりしながらも、自分の手から生まれた食べ物がおなかのなかに収まっていくことで、大きな幸福をもらっているのだと思う。

包丁を研ぎながら、梅干しをつけながら、芋の皮をむきながらときおりその幸福に身を沈めれば、これからもずっとおいしいご飯をつくっていけるのではないだろうか。

〇赤紫蘇を揉むたび両手の内側より出づるにごりよけふより文月  美衣

 
読みもの、食べもの
このところ立て続けに新しい本を読んだ。本はいつでも読む。毎日読む。なにかを学ぶとか、あたらしい世界に触れたいという表立った理由はなくて、ごはんを食べるように文字を読む。本ははじめから順に読むこともあるけれど、好きな本のぱっと開いたところから読むのも好きだ。

最近読んだなかの一冊が、細川亜衣さんの「食記帖」。これは新しく買った本で、いつもこの方の本は、本そのものの佇まいが美しいのでそれだけで本を買いたくなる。まだご結婚まえの米沢亜衣さんだったころにリムアートから出版された「10recipes」という本は、色合いと言い質感といい美術書のような素晴らしさだった。

この「食記帖」は、毎日食べたものを中心にした日々の記録 。いわゆる料理本のような分量やレシピはほとんどないが、毎食、毎日の『食べる』ということが浮き上がってくる。そう、何をどんなふうに食べたかは、その人の歴史の一部であり、家族のありようそのものだ。

わたしも一家の主婦として毎日料理をしている(せざるをえない)けど、何時までにお弁当を作らなくてはいけない、栄養バランスはどうか、冷蔵庫の中のそろそろ使わなくてはいけない食材はなんだったっけ、あれを作るのに何が足りない、仕事の約束がどうで、保育園のお迎えまであと何分、という混沌の中でつい抜け落ちてしまう大切なことがあるような気がする。そしてその大切なことは、家庭のなか、普段の生活のなかでしかなしえないものなのだろうなと思う。

本の好きな頁をなんども読みながら、そんなことを思ってここのところの雨の数日を過ごす。

本のなかにしばしばいりこだしの汁物が出てきて、温かくたっぷりした汁が食べたくなる。夕べは台所に残っていた野菜(人参、ねぎ、なす、かぶ)と豚のばら肉、油揚げ入りのうどんを作った。前に作って冷凍庫にあった鶏のストックを使って、酒と醤油と塩のごくあっさりした味付けにして大鍋にたっぷり作る。

明日の朝ごはんの分までゆうにあろうかと思われたが、どんどんおかわりされてなくなっていき(わたしも2回おかわりした)、ついに空になってしまった。どんな美味なレストランの料理も、栄養バランス完璧な給食もかなわない底力が確かにある、と思う。

 
歳時記
少し前に、歳時記を買った。歳時記には、春、夏、秋、冬の季節ごとに俳句の季語が載っていて、季語の意味の解説、その季語の入っている俳句がいくつか例に挙げられている。

ふと気になった言葉を季語として調べてみても面白いし、季語の例に挙がっている俳句を読んで、この季語でこんな風に世界を切り取って俳句を作っているのかと読むのも面白くて、飽きることがない。調べものをするときにも、歳時記にありそうな言葉は広辞苑を引いた後に歳時記でも引いてみる。または、ソファに寝転んで、ぱらぱら気になったページを開いて読んでいるだけで安寧な気持ちになり、それが高じてついうとうとしてしまうこともある。

巻末には忌日一覧があって、びっしりと一年の忌日が掲載されている。「そうか、梶井基次郎の忌日はやはり檸檬忌というのだな」とか、「この人は夏の暑い頃に亡くなったのだな」と思いながら読む。改めて、一年中絶え間なく人は死んでいるのだなと気づく。命とは長い歴史の帯であり、世界中に点っては消えるひかりのようなものにも思う。

今日8月21日は、俳人の石橋辰之助の忌日。昭和23年、39歳で亡くなっている。

〇朝焼の雲海尾根を溢れ落つ 石原辰之助

〇わくら葉に五月の風の吹き抜けぬ誰か死ぬ日は誰か生まれる日  美衣