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旅に持っていく本

ちょっとした用事で電車に乗る時も、本は欠かすことができない。
しかも、そのときにしっくりぴったりとくるものを本棚から選び出すのは、
なかなか難しいことだ。
出かける支度をすっかりととのえてから、鍵を片手に時間を気にしながら棚に並んだ本の背表紙を慌ただしく目で追うのは毎度のことだ。

普段の外出でもそうなのだから、旅にでるときはなお一層の緊張を持って、
慎重に本を選ばねばならない。

そこから数日間の自分の気持ちの移り変わりと、訪ねる場所の様子によって、
選んだ本がかがやかしい珠玉の一冊になったり、
はたまた持ち重りする余分な荷物にもなりえる。

すこしまえ数日間の旅に出た。
出がけに急いで選んだのはこの5冊。
「深夜特急1,2」沢木耕太郎、「ボクの音楽武者修行」小澤征爾、
「てんとろり」笹井宏之、雑誌「短歌」の古い号「小島ゆかり特集」。

今回の選択はというと、なかなかよかった。
旅に旅の本はどうかとも思ったが、旅の高揚感、緊張感、さみしい感じ、
そういう普段とは少し異なる気持ちに沿うようだ。
住む人も文化もひかりも異なる場所で読む、日本の短歌も良かった。

小島ゆかりさんの歌、
「アメリカで聴くジョン・レノン海のごとし民族はさびしい船である」
が胸に染みた。

明るく明瞭な英語の会話を聞きながら、笹井宏之さんの歌
「風。そしてあなたがねむる数万の夜へわたしはシーツをかける」
を声に出して読む。

日本語の心地よさ、ひろがりのふくよかさを存分にからだに沁み込ませて
旅はゆっくり進んでいった。

上等のお話
カズオ・イシグロの「夜想曲集」を読んだ。
実は、彼の小説はずいぶん前に「日の名残り」を読んで以来だ。

大学1年の時に取った「現代文芸」の授業。
現代フランス文学を中心に毎週テキストが選ばれたが、
そのなかに「日の名残り」があったのだ。
「現代文芸」がわたしにとってあまり心躍る授業でなかったものだから、
その中で課題テキストにされた小説はなんとなく触手が伸びないままになっていた。

電車の時間まであと数分ある、と駅ビルの書店に立ち寄り、
ぱっと目についた本を購った。
たぶんじっくり選んでいたら、カズオ・イシグロの本は手に取らなかっただろう。

わずかに緊張しながら頁を繰って行く。
ものの1,2頁で緊張はけむりのように立ち消えて行った。
活字を食い入るように追っていく。
でも先を読み急ぐのはもったいなくて、自分にブレーキをかけながら読み進める。

こういうお話は、実はなかなかない。
わたしはこういうように読まずにはいられなかった小説は、
胸のなかで「上等のお話」と呼ぶことにしている。
上等のお話は本当になかなかなくて、一年に2、3冊出会うかどうか、というくらいか。

音楽と夕暮れをめぐる五つの物語、と副題にあるように
この本は5つの短編から成っている。

音楽と夕暮れの物語、そしてこれは男女(夫婦)と才能の物語だ。
昔日の名歌手、芽の出ない中年サックス奏者、演奏しない一流音楽家、
美容整形を繰り返す中年女優などさまざまな人物が登場し、
そしてどの人人も切なく、かなしく、おかしみがある。

5つの物語は、読み手のわたしの体の中を
ちらちらと光りながらゆっくり流れて過ぎて行った。
そして、読み終えた後にもおなかの底のほうにほの温かさと
かすかな輝きが残された。

こういう気持ちになれるのが、わたしにとっていちばん上等のお話だ。
そうして、上等のお話を読むのは
それそのものの独立した純粋な楽しみであり、幸せだとつくづく思う。

新刊が出たらかならず読む作家リストに、カズオ・イシグロも追加された。





パン屋のパンセ
いっぺんに、恋に落ちた。

こまかに胸が震えて、いつまでもさざ波のように
しずかに寄せては返していく。

杉崎恒夫さんの「パン屋のパンセ」という歌集だ。

●わが胸にぶつかりざまにJe(ジュ)とないた蝉はだれかのたましいかしら 

●卵立てと卵の息が合っているしあわせってそんなものかもしれない

●星空がとてもきれいでぼくたちの残り少ない時間のボンベ

その歌からはまるで10代後半の少年のような雰囲気が漂う。
硬質で清潔な。
作者の杉崎さん90歳の頃のうただというから、なお驚く。

生きていることの、おかしみ、楽しさ、さみしさ、孤独。
ささやかなで大切なこと、みんなこの歌集に詰まっている。
どんなことも、気持ちをくさらせたり、あるいは声高に言い募ったりしない。
簡素で清潔な服をきちんと着て、ポケットに手を入れながら
ひとりしずかに歩いている少年が見えるようでならない。

わたしはたまらくなって、後ろからつよく抱きしめたくなるのだけど、
やっぱり思いとどまって少し離れた所からずっと眺めることにする。
そんな気分がしてくる。

●ゆびというさびしきものをしまいおく革手袋のなかの薄明

●さみしくて見にきたひとの気持など海はしつこく尋ねはしない





ノルウェイの森
映画館の予告編で、「ノルウェイの森」を見た。
映画化されるとは聞いていたが、期待より面白そうで、
それ以来わたしはひそかに「ノルウェイの森」づいている。

村上春樹氏の原作を初めに読んだのは、大学生の頃だ。
気に入った本は、何度も何度も読み返すたちなので、
たぶんこの本も10回以上読んでいる。

ビートルズの赤盤のCDを引っ張り出してきて
(15歳の誕生日に母からもらった。なんだか少し
大人になった気持ちがしたものだ)、
6曲目の「Norwegian Wood」を繰り返しかける。

歌いながら、皿洗いをしたり、掃除機をかけたりする。
掃除が終われば、本を読む。
お風呂に入りながら、電車に揺られながら
いろんな場所でていねいに読み返した。

物語をもう一度なぞり、ふたたびその流れに体を預けてみれば、
胸の奥のあたらしい糸がいっぽん、微かに震える感じがする。
小説は何度読んでもそのたびに新しい発見がある、と
誰かが言っていたような気がするけれど、
それは小説の中に描かれた何かを新たに発見するのではなく、
自分自身の中の新しい部分を見出すことなのだと思う。

今日のお風呂で、物語の最後の一文を読み終え、
もうそろそろ出なくてはいけない時間なのに
胸の中にしずかなさざ波が広がっていくのをもうしばらく感じていたくて、
小さな声で「Norwegian Wood」を2回歌い終わるまでそのままでいた。





急に読みたくなる本
ふだんは忘れていて急に読みたくなる本がある。

わたしにも何冊かそういった本があるけれど、
そのうちの一つが武田百合子さんの「富士日記」
あるいは「犬が夢見た」だ。

何度も何度も読んだ本だけれど、たいていは初めからは読まない。
途中開いたページを台所で鍋をかきまぜながら
なんとなく読んだりする。

すかんとして、力強くて、ほの暗くて
からだの隅々に養気が漲るような気がする。


ところどころにとても好きなところがあって、
そこのところにあたるととてもうれしい。

透き通るまで
磨くのが好きだ。

鍋釜の類も表面のひかりが鈍く見えだしたら
磨き粉をつけて磨く。
台所の床もまいにち磨く。
窓は向こうの景色がきれいに見えないと気持ち悪いので、
えいや、と弾みをつけて磨く。

一心にちからを込めて手を動かして磨いてゆけば、
ものは再びひかりを得る。
わたしは磨きながら、わたしのなかの澱が
次第次第にはがれおちて、ただ一本の管になるような
そんな錯覚に陥る。

わたしが磨くのが好きなのは、
たった一本の管になりたい、それだけのことかもしれない。

大好きな小島ゆかりさんの初期のうたのひとつ。

・みごもらぬ身は硬質の感じにて透きとほるまでガラス拭きをり


今朝もガラスを磨きながら、ちいさく声に出して
このうたを唱えてみた。


岡本かの子の短編である。

これを初めて読んだのは、たしか大学受験の現代文の模試だった。
本を読むのは好きだったから、現代文で問題として出ている
小説の一部を読むのも楽しみだった。

たくさんの小説を問題として読んだが、
後年まで印象に残っているのはこれひとつだと思う。

すこしまえに文庫版の全集を購い、
その中に鮮やかに印象に残っていたこの短編が収録されていた。

食が細く、無理をして食べるともどしてしまう子どもに
母親が鮨を握ってやる。
手をよくよく洗い、道具はみなおろしたてで
まずたまご、烏賊、白身の魚と握っていくうちに、
子どもは食べる喜びにうちふるえながら競争するように手を伸ばす。

母親の桃色のてのひら、白木の真新しいすし桶、
こんこんむせる酢の匂い、そんなものたちが一度に立ち上り
わたしはひといきに腑をつかまれた心地がする。

その心地をからだに残したまま、
夕方の台所で鮨飯をあおいでみたりする。







<し>が要るほどに
スポーツに熱狂した経験が、とんとない。
まず第一に運動が苦手だったから、
やるのも観るのも遠慮します、という姿勢を貫いてきた。

少し前のことだが、大松達知氏の歌集「アスタリスク」を読んだ。
大松さんは大の野球好きで、ロッテファンらしい。
歌集の中に野球にまつわる歌が幾つかある。

しらなかった。
何かのファンというのは、こういうものなのか。
こんなに血沸き肉躍る言葉が必要なものなのか。

ああいいものなのだな。
わたしに機会が巡ってくるかわからないけれども、
この短歌によって、球場にうずまく観衆の空気や
からだを貫く熱い血の流れを確かに感じた。

日常のなかでふと野球という言葉が頭をよぎるとき、
それ以来「二〇〇五年十月。」と詞書が添えられた
この一首を思い出す。


強調の<し>がどうしても要るほどに涙し流る 千葉ロッテ日本一


横っちょのすき間から
ははあ、そうきたか。
読み始めて間もなくの感想である。


はじめて入った本屋でその字面だけで購った。
「つむじ風食堂の夜」という文庫本だ。
あかるいま昼間の電車の座席で読み始めてしばらくの感想が
前述の通りだ。

好きだなと思う小説には2種類あるように思う。
一番多いのが、もう正面切ってああすごく好きだ、と思って
ここのこういうところがいい、ここもいいとあれこれ具体的に述べられる
そういう小説。

もう一方は、茫洋としていてどういうところが好きなのか
自分でもよくわからない。
そもそも好きだと公言するのも、特に理由はないけれど
なんとはなしにはばかられる。
頁の文字を目で追っているうちに、いつの間にか
その文字にからめとられてしまったようなそんな不思議な気持ちがする。

それに惹かれる気持ちは、真正面からどんと来るのとちょっと違って
からだの横っちょのすき間からじんわりと入ってきてしまう。
心地よいような、気色わるいような、なんとも言いようのない感じだ。

電車の座席で、小説の世界にからめとられてしまって
わたしは目の前の文字の並びしかこの世の中にないように
あらゆることからぷつりと切れた状態で
降りる駅までのしばらく電車に揺られた。


淡橙の果
季節と季節の狭間のようなこの時期、
枇杷の実の食べごろである。

昨年は友人に枇杷狩りに誘ってもらい、
枇杷並木のようになっている素晴らしい場所で枇杷を採った。
どの木にも音のするほど枇杷がなっていて、
木に成っている枇杷の実と、手の中の枇杷の実だけを
しばらくの間交互に眺めていたので、
ついには頭の半がじいんと痺れたようになるほどだった。

肘まで枇杷の薄く甘い汁で濡らしながら、
酔うほどにたっぷり枇杷を食べ、
おおらかで勇ましい気持ちになった。

今年は枇杷狩りの計画を立てる前に枇杷が熟れてきてしまい、
「少し酸味が失せてしまったけれど」と
平たくひと並べした枇杷を頂いた。

つるり、つるり、と皮を剥いて
そのうすだいだいの実を食べたとき、
ふたつの本の下りを思い出した。

ひとつは何に書かれた随筆だったか忘れてしまったが、
武田百合子さんの文で、晩年の夫に枇杷を剥いて
さらにそれを食べやすく薄く切ったものを出したとき、
口の端から汁を滴らせながら、
「ああ、うまい。おれはこういうものが食べたかったんだ」と言った下り。

もう一つは小川洋子さんの「妊娠カレンダー」で、
妊娠中の女性が夜中に枇杷のシャーベットを執拗に欲する下り。
たしかその中では枇杷のシャーベットのが
うすい果肉が層になってそれがシャーベットになったもの、というように
描写されていたように思う。
(高校生の頃読んだきりなので、定かでないが)

そんな本の中に描かれた枇杷のことを考えながら
するするとうすだいだいの実を口に入れ、
気がつけば、目の前の皿には濡れた着物のような枇杷の皮と
いやにつるっと光る種が嵩高くなっていた。