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鞦韆
鞦韆(しゅうせん)、ブランコのことである。

鞦韆という言葉を知ったのは、短歌の中だった。(そういえば詩歌以外で鞦韆という言葉を、会話の中でも、小説や随筆のなかでも目にしたことがない)

○さ庭べに夏の西日のさしきつつ「忘却」のごと鞦韆(しうせん)は垂る  宮修二『晩夏』

宮修二の上の歌では、乗る人のないぶらんこがただ垂れ下がっている様子が、かぎかっこつきの「忘却」と歌われている。西日の射す夏の夕方のものさみしい様子がよく出ている。ぶらんこ、ブランコではこの歌の感じが出ないだろう。ここではやはり鞦韆という言葉がふさわしい。

○鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし 三橋鷹女『白骨』

上の句では、それまで俳句はカメラのシャッターを切るようなイメージだったのをかるがると覆された。「愛は奪ふべし」という歌いかたは、短歌のようだが、このきっぱりと強い断定のリズムは5・7・5の形式だからこそだろうと思う。ここでも、「ブランコは漕ぐべし」ではまったく違う趣になるのは明白で、鞦韆という言葉が生きている。

わたしの家の庭には、小さなブランコがある。真ん中の子の誕生日に、わたしの母が贈ってくれたものだ。子どもたちだけでなく、わたしもときどきブランコを漕いでみる。

つらい気持ちになったとき、忙しさで苦しくなると、家を出る前の慌ただしい時間の合間にちょっと乗る。ものの1分ほどの、短い時間である。ブランコを漕いで、庭に植えている小手毬やライラックの緑が揺れながら目に入ってきて、上を見上げると空が広がり、山の緑が迫り、遠ざかりてゆく。そうすると、わたしの大変さなどもう大したことはないのだとわかる。思える、というのでなく、すとん、と腹に落ちてわかるように感じる。

そんなときには、わたしはいまブランコではなく、鞦韆を漕いでいるのだと思う。鞦韆という言葉があって、よかった、と思い、空をゆっくりいく飛行機を見つけて「あ、ひかうき」と心の中でつぶやく。昔の言葉や旧かなの表現がしっくりくるときは、現代にもちゃんとある。