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暮らしの息づかい
ふらんす堂のホームページで毎日更新されている、高野公彦の短歌日記を毎日楽しみにしている。何年か前からこのコーナーがあるのを見つけて毎日の楽しみだったが、特に今年は好きな歌人の一人である高野氏のあたらしい歌が毎日手元に配達してもらえるのはほんわりと楽しく、うれしい。

このコーナーは日付とその日の一首、それに文章が少しという構成だ。短歌はふつうは31文字の一首だけで、まれに横にちょっとしたひとことを添えるときもある(詞書という)が、分量としては詞書より多い感じ。この文章がこの短歌日記のスパイスにもなっていて、普通の歌集を読むのとはまた違った趣がある。

そういえば、わたしは日記というものをほとんど書いたことがないけれど、日記を読むのは好きだ。武田百合子の「富士日記」は、何度も通して読み、気が向いたときに手に取って適当に開いたところを読んだりもする。沢村貞子の「わたしの献立日記」も好きだ。通して読むと、夫婦ふたりのお宅の暮らしが手触りをもっていきいきと伝わってくる。ちょうど今の時分の献立はなんだろう、とパラパラと開いてみて、ごはんの参考にさせてもらったり、こんな風にひとつひとつ心をこめて料理をこしらえたいなと改めて思ったりする。

日記とは毎日あったことを書いていくものだが、変わり映えのしないような毎日でもたくさんのことがあって、すべてなど到底書ききれない。書ききれないものの中から、書かれている事柄、書かれている様子は、その書き手が掬い上げたものだ。どんなものをどんなふうに救い上げたか、というのはその人には世界がどう映っているかということだろう。だから日記は面白い。

何年か前に、やはりふらんす堂で連載していた小島ゆかりの短歌日記が本になっている。「純白光」というタイトルのその本は、白を基調にした装丁もうつくしく、持ち歩きやすいサイズもうれしい。好きな本はたくさんあるけど、わたしの本棚のなかの大切な本の20冊に入ると思う。台所仕事しながら流しの脇で、電車に揺られながら、あるいは夜の片づけが終わった食卓で、ぱらぱらとめくってはひらいたページに目を落とし、しん、と読む。

言葉とは、詩歌とは毎日をあかるく、うつくしくするもの。そして人はおかしく、いとしいものだと思いながら、わたしはこれまでもこれからも、いろんな時代のいろんな人の暮らしの息づかいを感じながら日記を読むだろう。