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あたらしい本棚

最近、リビングにわたしの本棚ができた。リビングには大きな作り付けの棚があって、そこにわたしの本、子どもの本、文房具や、雑多なもの、書類、置物などなんでも置いていた。なかなかいい棚なのだけれど、奥行きがたっぷりしているものだから、本を入れると深すぎる。本もどんどん増えていくものだから、ついには三層に本を入れるようになって、奥の本はいったい何だったかわからなくなっていた。

 

そこで「本棚が欲しいなあ」と言ってみたら、本棚を家人が作ってくれることになった。置きたい本のサイズ、冊数、場所や、棚のイメージだけ伝えたらあとは大船になった気持ちでいよ、とのこと。あれやこれや条件や値段を比べて買い物をするのが苦手なわたしは、もうそれはただ楽しみなだけで本棚の完成を待った。

 

作る、とはいってもごく簡単なものだ。本を並べて出し入れしやすければよいので、レンガに板を載せたものを作ってもらった。幅や高さを慎重にきめて、一段の高さも計算をし、板をカットし、ペンキで塗る。自分でなにかをこしらえるのは楽しいものだが、自分のためにすてきなものを誰かがせっせと作ってくれるのを眺めるのはうれしい。

 

想像以上に素晴らしい本棚が、リビングの一角に据えられた。ぎゅうぎゅうにしまっていた本をみんな出してやって、本の上に溜まっていたほこりを払うと、本が息を吹き返したようだ。この本のとなりはこれ、この並びはこんな風にと本を並べていくのも楽しい。通りすがりに目についた本をひょいっと手に取り、そのままソファにごろりとするのも格別の贅沢な気分だ。そして本の、言葉の森のなかに深く潜っていくのだ。

 

〇風。そしてあなたがねむる数万の夜へわたしはシーツをかける  笹井宏之『てんとろり』

 

読みもの、食べもの
このところ立て続けに新しい本を読んだ。本はいつでも読む。毎日読む。なにかを学ぶとか、あたらしい世界に触れたいという表立った理由はなくて、ごはんを食べるように文字を読む。本ははじめから順に読むこともあるけれど、好きな本のぱっと開いたところから読むのも好きだ。

最近読んだなかの一冊が、細川亜衣さんの「食記帖」。これは新しく買った本で、いつもこの方の本は、本そのものの佇まいが美しいのでそれだけで本を買いたくなる。まだご結婚まえの米沢亜衣さんだったころにリムアートから出版された「10recipes」という本は、色合いと言い質感といい美術書のような素晴らしさだった。

この「食記帖」は、毎日食べたものを中心にした日々の記録 。いわゆる料理本のような分量やレシピはほとんどないが、毎食、毎日の『食べる』ということが浮き上がってくる。そう、何をどんなふうに食べたかは、その人の歴史の一部であり、家族のありようそのものだ。

わたしも一家の主婦として毎日料理をしている(せざるをえない)けど、何時までにお弁当を作らなくてはいけない、栄養バランスはどうか、冷蔵庫の中のそろそろ使わなくてはいけない食材はなんだったっけ、あれを作るのに何が足りない、仕事の約束がどうで、保育園のお迎えまであと何分、という混沌の中でつい抜け落ちてしまう大切なことがあるような気がする。そしてその大切なことは、家庭のなか、普段の生活のなかでしかなしえないものなのだろうなと思う。

本の好きな頁をなんども読みながら、そんなことを思ってここのところの雨の数日を過ごす。

本のなかにしばしばいりこだしの汁物が出てきて、温かくたっぷりした汁が食べたくなる。夕べは台所に残っていた野菜(人参、ねぎ、なす、かぶ)と豚のばら肉、油揚げ入りのうどんを作った。前に作って冷凍庫にあった鶏のストックを使って、酒と醤油と塩のごくあっさりした味付けにして大鍋にたっぷり作る。

明日の朝ごはんの分までゆうにあろうかと思われたが、どんどんおかわりされてなくなっていき(わたしも2回おかわりした)、ついに空になってしまった。どんな美味なレストランの料理も、栄養バランス完璧な給食もかなわない底力が確かにある、と思う。

 
歳時記
少し前に、歳時記を買った。歳時記には、春、夏、秋、冬の季節ごとに俳句の季語が載っていて、季語の意味の解説、その季語の入っている俳句がいくつか例に挙げられている。

ふと気になった言葉を季語として調べてみても面白いし、季語の例に挙がっている俳句を読んで、この季語でこんな風に世界を切り取って俳句を作っているのかと読むのも面白くて、飽きることがない。調べものをするときにも、歳時記にありそうな言葉は広辞苑を引いた後に歳時記でも引いてみる。または、ソファに寝転んで、ぱらぱら気になったページを開いて読んでいるだけで安寧な気持ちになり、それが高じてついうとうとしてしまうこともある。

巻末には忌日一覧があって、びっしりと一年の忌日が掲載されている。「そうか、梶井基次郎の忌日はやはり檸檬忌というのだな」とか、「この人は夏の暑い頃に亡くなったのだな」と思いながら読む。改めて、一年中絶え間なく人は死んでいるのだなと気づく。命とは長い歴史の帯であり、世界中に点っては消えるひかりのようなものにも思う。

今日8月21日は、俳人の石橋辰之助の忌日。昭和23年、39歳で亡くなっている。

〇朝焼の雲海尾根を溢れ落つ 石原辰之助

〇わくら葉に五月の風の吹き抜けぬ誰か死ぬ日は誰か生まれる日  美衣

 


 
暮らしの息づかい
ふらんす堂のホームページで毎日更新されている、高野公彦の短歌日記を毎日楽しみにしている。何年か前からこのコーナーがあるのを見つけて毎日の楽しみだったが、特に今年は好きな歌人の一人である高野氏のあたらしい歌が毎日手元に配達してもらえるのはほんわりと楽しく、うれしい。

このコーナーは日付とその日の一首、それに文章が少しという構成だ。短歌はふつうは31文字の一首だけで、まれに横にちょっとしたひとことを添えるときもある(詞書という)が、分量としては詞書より多い感じ。この文章がこの短歌日記のスパイスにもなっていて、普通の歌集を読むのとはまた違った趣がある。

そういえば、わたしは日記というものをほとんど書いたことがないけれど、日記を読むのは好きだ。武田百合子の「富士日記」は、何度も通して読み、気が向いたときに手に取って適当に開いたところを読んだりもする。沢村貞子の「わたしの献立日記」も好きだ。通して読むと、夫婦ふたりのお宅の暮らしが手触りをもっていきいきと伝わってくる。ちょうど今の時分の献立はなんだろう、とパラパラと開いてみて、ごはんの参考にさせてもらったり、こんな風にひとつひとつ心をこめて料理をこしらえたいなと改めて思ったりする。

日記とは毎日あったことを書いていくものだが、変わり映えのしないような毎日でもたくさんのことがあって、すべてなど到底書ききれない。書ききれないものの中から、書かれている事柄、書かれている様子は、その書き手が掬い上げたものだ。どんなものをどんなふうに救い上げたか、というのはその人には世界がどう映っているかということだろう。だから日記は面白い。

何年か前に、やはりふらんす堂で連載していた小島ゆかりの短歌日記が本になっている。「純白光」というタイトルのその本は、白を基調にした装丁もうつくしく、持ち歩きやすいサイズもうれしい。好きな本はたくさんあるけど、わたしの本棚のなかの大切な本の20冊に入ると思う。台所仕事しながら流しの脇で、電車に揺られながら、あるいは夜の片づけが終わった食卓で、ぱらぱらとめくってはひらいたページに目を落とし、しん、と読む。

言葉とは、詩歌とは毎日をあかるく、うつくしくするもの。そして人はおかしく、いとしいものだと思いながら、わたしはこれまでもこれからも、いろんな時代のいろんな人の暮らしの息づかいを感じながら日記を読むだろう。
言葉の森であそぶ
本が好きだなあ、と思う。本好きにもいろいろあるのかもしれないけれど、わたしの場合は「言葉」、「文字」が好きだ。

町を歩いていても、面白い看板や表札をつい見つけておかしがる。お菓子を食べると、裏側の文字のならびを眺める。ごはんを作りながら、眠る前のふとんの中でも、電車でも本を読む。

いまさらながらで大きな声では言えないが、少し前に広辞苑を買った。これが読み物としてめっぽう面白い。よいしょ、と開いたページの目についた言葉を読む。今度はその前後の言葉を読む。知らなかった言葉があったり、知っている言葉も生真面目な説明を読むとおかしくて、ところどころ入っている挿絵も間の抜けた感じが、作っている人も面白がってやっているように思える。

面白いと「ねえ、ねえ」と近くにいる子どもや夫を呼び止めて、面白いところを読んで聞かせる。わたしのそういうことに慣れている家族は適当にふん、ふんと聞いてどこかにいってしまうので、ひとりごとなど言ってみる。子どもを寝かせた後、食卓に分厚い広辞苑をよいしょと開くのは、わたしの一人遊びだ。古くから人々に使われてきた言葉、新しく生まれた言葉、土地土地で生まれた言葉。辞書という本は、たくさんの色合いや手触りの言葉の森である。

〇灯の下に辞書を開きしゆふまぐれ言葉の森にわれはあそびき 美衣
 
冷蔵庫に貼ることば
わたしの冷蔵庫には、大切な手紙や子どもの絵、学校のプリントなどをずらずらと貼っている。冷蔵庫は家に入ってくる紙類たちのなかでいちばん大切なものだけを貼る特等席だ。息子のクラスメイトのお母さんにそんな話をすると、うん、うんとうなずいた。

彼女が「ずーっと貼っている新聞の切り抜きがあるのよ」、という。
〇しつかりと飯を食はせて陽にあてしふとんにくるみて寝かす仕合せ 河野裕子
この短歌が載っていた新聞記事を切り抜いて、冷蔵庫に貼っているという。彼女は子どもをついきつく叱ってしまったとき、くたびれてしまったとき、冷蔵庫のこの歌を読んであたたかい力をもらっている。

ああなんとうれしいことだろう。一人の歌人が読んだなんということもない子育ての歌、生活の歌が、時を経て一人の母親のもとに届いて、大切に口ずさまれている。

少し前に読んだ、松村由利子著『子育てをうたう』を思い出した。この本は子どもとのくらしをテーマにして近代のさまざまな歌人の短歌を引用しながら、著者のあたたかくユーモアのあふれる鑑賞と子育ての日々のことがつづられている。

いまから百年も前の与謝野晶子の歌、30年前の河野裕子の歌、現代の大松達知の歌。子どもとのささやかな暮らしと、自分の一番近くにある幸せをうたったたくさんの歌は、後のわたしたちへの贈りものだと思う。

〇腹立ちて炭まきちらす三つの子をなすにまかせてうぐひすを聞く 与謝野晶子
〇子は抱かれみな子は抱かれ子は抱かれ人の子は抱かれて生くるもの 河野裕子
〇わが体を内よりノックする人よ白いひかりは梅の花だよ 駒田晶子
〇子の目から大粒のなみだを絞り出しいつまでわたしは怒鳴っているのだ 森尻理恵
〇危ないことしていないかと子を見れば危ないことしかしておらぬなり 俵万智
〇巻尺をもちて図れるその体、声だして指の数は数へる 大松達知
 
色と模様
本屋と図書館は当たりの日、はずれの日がある。
当たりの日はもう次から次へと面白い本が見つかって困るくらいだし、はずれの日はどんなにぐるぐると書架を回ってみてもこれ、という本が見つからない。

ちいさな子どもを抱えていると、本屋も図書館もなかなかゆっくりいけないものだ。日曜日、ひさしぶりに本屋に足を運んだ。
この日は当たりの日で、一抱えもある本を心弾みながらもって帰った。
その日買った本は、
●日本の文様
●日本の色
●クレーの贈り物
●パウル・クレー絵画のたくらみ
以上4冊である。

もう何とも贅沢なラインナップで、夜のふとんの中でなるべくゆっくり読み進めようと、はやる気持ちを押さえながらページを繰った。しかし驚くのは日本の色やデザインの豊かさだ。いったいこの時代と現代の間のどこへ、この豊かさを落っことしてしまったのだろうかと思ってしまう。

文様、模様というものは災いや病から身を守るものとしてできたという記述に、なるほどと思う。点が線になって、線がかたちになって模様が出来てきたと読んで、お世話になっている点と線模様製作所さんのお名前はこのところからきているのかと思い至る。

今よりも病気や天災で人の命が失われることの多かった頃には、布を植物の染料で染めることは虫除けの実用であり、そこにゆたかな色の重ねや模様を施したのは人の工夫と祈りなのだろう。そう思うと、ただ好みだけで色柄を選ぶのとはもう少し違った見方ができるような気がする。

たまたまこの本を手にした次の日に、テレビで染織家の志村ふくみさんの番組を放送していた。たまたまテレビを点けたら、番組の冒頭で、志村さんが大釜で梅の枝を煮出していた。釜が据えられた部屋には、もうもうと湯気が立っている。
梅の枝にはつぼみがついている。花がひらいてしまうと、色は花に移行してしまうという。
釜のなかの煮出された汁はうす茶色で、これで染めた糸で織った布はもっとうすい茶色なのだろうかと想像しながら見ていた。

次の場面、日本家屋の縁側に衣紋掛けにひろげられたきものは、なんともやわらかなうす桃色で、あっと驚く。これが花に移行するはずの色だったのか。冬から春に移り変わろうというときに、いちばんに先駆けてひらく梅の色、気配そのままの布は本当に見事だった。

その番組で織物のデザインはこんなところから生まれるのよ、というお話をしながら志村さんが手にしていたのはクレーの画集だった。クレーのわたしも好きなあの微妙な色合いのブロックがならんだ絵のモチーフは、クレーが子どものころよく遊びにいったスイスの石切り場の光景だと本にあった。

最近の夜の読書は、専ら色や模様の本、染めの本、写真集や画集など。
一冊の本が次の出会いを呼んだり、あたらしい世界を眼前にひろげてくれるのはなんと豊かなことか。
最近のうれしかったことのひとつだ。




 
あさがおとあさがほ
小学校一年生の子が持ち帰ったあさがおが、毎朝花を咲かせている。

この時期、通りを歩くと同じ青いプラスティックのあさがおの鉢が置かれた家が散見され、ああここにも小学一年生の子がいるのだなと思う。
あさがおは小学校に入って一番先に理科(今は生活科だが)で育てる植物であり、花そのものの印象の前に小学校の印象がついてしまっていた。
花そのものをいいな、と思うようになったのはこの夏が初めてのように思う。

この夏は子どもの鉢の他に、台所の窓の外にもあさがおを植えた。
土も堅いところで、いかにも栄養がなさそうで育つかと心配したが、庭のフェンスを伝ってぐんぐん伸び、毎朝4、5輪の花を咲かせている。まだ蝉が鳴き出す前の朝早くに、ゆらりとひらいたあさがおは夏らしくておおどかでいいものだ。

ここ数年夏になると河野裕子さんの遺歌集となった「蝉声」を読みたくなる。
そのなかに「ゆめあさがほ」という十首の連作があり、これを読みながら思わず窓の外の大輪のうす紫のあさがおに目をやる。

小学校のあさがおの次にわたしが出会ったのは、歌に読まれた「あさがほ」だった。プラスティックの鉢やら観察日誌、夏休みの「あさがお」と短歌のなかの「あさがほ」はわたしのなかで似て非なる遠いものだったが、ようやくひとつに重なったように思う。

あさがおは、はかなげな風情がする。子のプラスティックの鉢のあさがおも、この夏は一度きりなのだとちゃんと知っているように思える。流れていく時間は、育つ時間も、終わりゆく時間もなべてみな切ない。

●来年もこの花たちに会へるやうに一晩一晩ふかく眠らねば

●大事なのはお母さんでゐること山茶花よご飯を作りお帰りと言ふ

河野裕子「蝉声」より






雨の日の書店
いくつかの所用があり、朝から都内に出ていた。
朝の時分は吉祥寺、その後中野へ、そして東京に出て戻る、という算段である。

おりしも、このところの変わりやすい天候のま最中である。
いやに湿度だけが景気よく感じられ、まだらな雲とたっぷりした水気越しに
じりじりした日差しのしつこさがのぞく日だった。

念のために、日傘のほかに折りたたみの雨傘をかばんに入れてもっていたが、
吉祥寺の用事を終えて、駅に向かう途中、ぽつ、ぽつ、と雨が降り始めた。
信号が変わるのを待つわずかの間に、雨はにわかに土砂降りになってしまった。
亜熱帯のスコールさながら、そうなると折りたたみの傘など何の役にも立たない。

とても表にはいられなくて、近くの建物のドアをあけて飛び込む。
あかるいビルの中は、ちょうどショッピングモールだったようで、
わずか数十秒で膝から下が水浸しになってしまったわたしと対照的に、
からりと乾いて、安全で、小奇麗だ。
あまりの世界の違いにくらくらしながら、上の階の書店にいってみる。

小さくもなく、すごく大きくもない中くらいの本屋さん。

あまり期待しないで、詩歌のコーナーに行ってみる。
ふつうの本屋さんでこのコーナーはまずがっかりすることが多い。
歌集など1、2冊。
詩も俳句も短歌もごちゃまぜで、分類すらされていないところも
めずらしくない。

まず歌集が平積みで何冊も!
それが、また読みたいと思うものばかりなのだ。

ふらんす堂から出ている東直子さんの「十階」。
笹野宏之さんの「てんとろり」。
杉崎恒夫さんの「パン屋のパンセ」。

このあたりから発熱したように頭がぼうとしてくる。

詩歌のコーナーをよろよろと移動して、
書店を一周するまでに、いつのまにか両手にいっぱいの本を抱えていた。

あまりの興奮にレジでお会計するときに、
すばらしい品揃えでとてもうれしかったです、と言ってしまう。

紙袋ふたつを両の手に提げると、いちだんとずっしりと重みがある。
建物を出ると、さきほどの雨がまぼろしだったように
すでに雨はすっかり上がって、青い空が雲の間からのぞいていた。


活字の休日
読書家、というのとはすこし違うように思う。
思い返してみると、小さい頃からごはんを食べるように活字を食べて暮らしてきた。

おかしを食べながら、お菓子の袋の裏側の活字を眺める。
ひどく長い原材料名の羅列やら、お客様センターの電話番号やらを丁寧に。
新聞は今も昔も好きだ。
だまっていても、毎朝かならずあたらしい活字を届けてくれる。

日曜日。
久しぶりに、朝早くに用事あってでかける家族が誰もいなくて、
おおこれは好きなだけ惰眠を貪ろうと心に決めた割に、6時半にぱっちり目が覚める。

布団から出てしまって、朝ご飯を作ったり洗濯機をまわしたり
いつもの用事をしてしまうのが惜しいので、
隣の部屋に本を取りにいく。
前の日に新しく買った「短歌研究」の新しい号と、
本棚から、よしながふみの「きのう何食べた?」の2巻、
江國香織の「流しの下の骨」を持って、もう一度布団に入る。

ごろごろしながら、あたたかい布団で持ってきた本の適当なところを読む。

日曜日の新聞を読む。
日曜日の新聞は、一週間のうちでいちばん面白いので楽しみにしているのだ。
文化欄のコラムが、今週は逗子在住の詩人の高橋睦郎さん(道でときどきお会いする)だった。
その他の楽しみは、新刊の書評コーナーと、歌壇・俳壇。絵画欄も。
少し前に終わってしまった瀬戸内寂聴さんのコラムが読めなくて残念だ、
あれ面白かったのに、といいながら朝ご飯の終わった食卓で
お茶をちびちび飲みながら、夫と交換しながら新聞を読む。

昼は、ふたたび本屋さんに行く。
あたらしい本を2冊購って、帰り道に待ちきれなくて道すがら頁を繰る。

料理しながら、先ほど買った本を読む。
亡くなった絵本作家の佐野洋子さんについて、
ご子息の広瀬弦さんと詩人の谷川俊太郎さんとの対談を眺めながら、
4人分のラーメンを作る。
麺をゆでたり、ねぎを刻んだりする。

お風呂上がりに、ドライヤーで髪の毛を乾かしながら、
部屋の床にぺたりと座って、広げた本を床に置いて読みながら髪を乾かす。
にやりとしたり、ときにしんみりしたりしながら、
昼の続きの対談を読む。

寝る前に、先週届いた冬物の通販カタログの
あったかスパッツの効能をじっくり眺める。
じっくり眺めて、ぱたんと閉じて布団に入る。