<< October 2019 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>
子どもと野菜と包丁と
割合に薄切りやら、千切りやらが得意だ。キャベツの千切り、お正月の紅白なます、きんぴらごぼうは歯触りよく、うつくしくと心の中で念じながら包丁を握る。

野菜を刻むのに一番なのは、やはり菜切り包丁。実家ではだいたいはステンレスの牛刀を使うことが多かったが、結婚して夫の母が使っていた菜切りを貸してもらったら使いやすくて気に入った。しばらくのちに、たまたま近所のスーパーでの有次フェアで買い求めた。わたしの手持ちの包丁はステンレスの牛刀、ステンレスのペディナイフ、パン切りとこの菜切りの4本だ。

たいていはペディナイフで肉でも魚でも野菜でも切ってしまうが、やはり野菜を切るのは菜切りがもっとも適している。薄切り、千切りの類はもちろん、里芋の皮をきれいにむく、かくし包丁を入れるときなど、なんてことないようなときにもやっぱり使いやすい。名前のとおり、菜っ葉を刻むのもきもちよくいく。

買ったときには鋼の包丁をきちんと自分で研げるだろうか、と心配だったが年月とともに多少上達しているように思う。月に一度くらいだが、ちょっとした時間の合間に砥石を出して、菜切りとペディナイフを研ぐ。しょーり、しょーり、しょーりと一定のリズムで研いでいると、明日からの家のご飯がおいしくできる気がしてくる。また、昔話の山の婆のようになにやら魔術めいた気持ちもしてきて、楽しい。

よく切れるようになった包丁を新鮮な肌の張った野菜に当てると、一瞬わたしも野菜も身のすくむ気がする。その一瞬ののち、鮮やかに野菜は切れているのだ。うちの一番小さな子が料理をするとき、自分の椅子を近くに引きずってきて、一心にわたしの手元をのぞき込む。赤いトマトを半分にすれば、そこにはどろりとして粒を含んだ種があり、茄子を切れば濃紫の肌から想像できない色っぽい白さ、ピーマンは小室のような空洞が広がっていて、自然の造形はなんと不思議でうつくしいことだろうか。

○はりつめし茄子のはだへに刃を当てつ右の耳朶すくみてゐたり
○トマトあか、なすは白くてピーマンはからつぽだねえ、ねえおかあさん  美衣


 
すっぱいもの、あまいもの
食べ物の好みは、かなり生まれたときに決まってしまっているのではないか。子育てをしていると、そんな気がしてならない。

我が家は子どもが三人で、みな男の子でご飯もみな同じようなものを食べさせたのに、と首をひねることがある。食べ物の好みが似ているのは、私と長男、次男、三男は夫に似ているようだ。

顕著なのが、すっぱいもの。次男と三男は、梅干しやらピクルスやらが大好きで、「ねえ、この宿題やったら梅干し一粒食べていい?」と聞くくらいである。わたしはといえば、梅干しはなくても平気。おにぎりの具も、梅干しよりも鮭や昆布の方が好みだ。長男も同じで、梅干しなんてなにがいいの?という具合だ。

三男が離乳食の頃、白粥をほんとうに嫌がったのには驚いた。食欲の旺盛な赤ん坊だったのに、白粥だけは心底いやそうな顔をして向こうに押しやった。粥が嫌なのかと、少し大きくなったら普通のご飯をやってみたが、やはり同じだった。一方、パンは大好きで離乳食のころなのに食パンを一度に2枚も3枚も平らげた。

三男が白いご飯を好まないのは今でも一緒だが、炊き込みご飯や味付きごはんは大好きで、要は濃い味好きなのだろうと家族は了解している。最近彼がほぼ独占して食べてしまったのが、ゆかり。今年の夏、わずか2キロばかりつけた梅干しと漬けた赤紫蘇をゆかりにした。これがたいそう気に入って、ゆかりをかけさえすれば、白いご飯を4膳も5膳も食べるのだから驚いてしまう。

好みが少しずつ違う兄弟がそろって好きなのが、あまいもの。パンケーキにメイプルシロップをかけるときなどは、かけすぎてしまわないように目を光らせないと、しばしば皿の上が大海のようになってしまう。

しかし、家族のなかのお母さんと言うものは「この子はこれが好きだ」とか「これを嫌がってちっとも食べない」などと困ったり、大変な気持ちになったりしながらも、自分の手から生まれた食べ物がおなかのなかに収まっていくことで、大きな幸福をもらっているのだと思う。

包丁を研ぎながら、梅干しをつけながら、芋の皮をむきながらときおりその幸福に身を沈めれば、これからもずっとおいしいご飯をつくっていけるのではないだろうか。

〇赤紫蘇を揉むたび両手の内側より出づるにごりよけふより文月  美衣

 
わらびもちのピンク
わらびもちが好きだ。なにせ凝りやすい性なので、ここのところ週に三度は食べているだろうか。これまでに、老舗の和菓子屋さんのわらびもち、行列の人気店のわらびもち、デパートの地下で見かけたわらびもち、いろんなわらびもちを食べた。

大きな声では言いにくいが、いろいろあるわらびもちのなかでわたしがいちばん好きなのは、スーパーで売られているあの水色のトレイに入ったものだ。ああいう姿のわらびもちは、わたしが子どものころからスーパーで売られていた。今のと違うのは、透明のいかにも冷たくぷるぷるしたわらびもちの集まりの端っこのほうに、たしか二つだけうすピンクいろのわらびもちが入っていたことくらいだろうか。

三人兄弟だったから、このひとパックのわらびもちを三人で分けて食べた。まずきな粉をかけるところから誰がきな粉をかけるかでひと悶着ある。権利を勝ち取った一人がちいさなビニル袋入りのきな粉を、慎重にまんべんなくかける様子を後の二人は固唾をのんで見守る。つい、ふーっと息を吐いてしまって、きな粉が飛んだりしたらひどく責められた。

一人一本ずつ爪楊枝をもってきて、順繰りに一つずつ食べていくのだが、決まってうすピンクのわらびもちを誰が食べるかでもめた。味が変わるわけでも、とりわけ美味しそうなわけでもないのに、あのうすピンクには抗いがたい魅力があり、じゃんけんで負けたりしようものなら、一番小さい妹など身をよじって、涙を浮かべてくやしがった。

三人で順繰りに食べるわらびもちは、いつでもすぐに食べ終わってしまい、残ったきな粉なんかを指につけてなめても、いつも物足りなかった。いつか一人であのわらびもちをおなか一杯に食べたい、ピンクのところも独り占めして食べたいものだと思ったものだ。子どものお腹にはあのひとパックみんなは多いという理由で、母はいつも三人で分けて食べさせていたのだろうけど、あれほど食べたいと思っていたのに、不思議に母に一人ひとつ買ってほしいとは言わなかった。

大人になって、そしてだいぶ大人になった今でも、わらびもちをひとパック全部一人で食べるのはうれしい。うれしくておいしいのだけれど、うすピンクのところがないことと、爪楊枝を手に手に目を爛々とさせた兄弟たちがいないのは少しつまらないのかもしれない。

〇わらび餅口中のこの寂寥よ  堀井春一郎
七夕の食べもの
行事と食べものはセットになっていることが多い。端午の節句とかしわもちとか、ひな祭りと散らし寿司とか、クリスマスと鳥の丸焼きとか。ただ、七夕にはこれといった食べものがないようだ。

なぜか子どもの頃に、七夕には冷やし中華が出るような気がした。たぶんそういう習慣があったわけでなくて、季節がら何回かたまたま七夕の食卓に並んだだけだと思う。わたしは子どもの頃、中華めんのもの(ラーメンや冷やし中華など)があまり好きじゃなくて、それが食卓にならぶとがっかりしたものだ。だから余計に記憶に残っているのだろう。

ラーメンや冷やし中華はそれだけで、一食のごはんが済まされてしまうことも多く、だからこそ余計にがっかりさせられるのだ。

今年の梅雨はいつもの年にまして、雨、雨、雨のような気がする。体中どよんと重たく、この世のなにもかも濡れて湿っているようだ。小島ゆかりのこんな歌を思い出す。

〇かなしみのかたつむり一つ胸にゐて眠りても雨めざめても雨  小島ゆかり『獅子座流星群』より

おかげていつもは梅雨の合間に近所に取りに行く笹を、今年は取りそびれてしまった。七夕の夜もやっぱり雨だった。七夕の日の夕飯は、冷やし中華でなくて、ごく平凡な麻婆豆腐に焼き茄子、蕪のスープという献立だった。

織姫と彦星のロマンスの欠片もないが、家族5人で平凡ににぎやかに食べる七夕の夕食もまたこれでよしと思う。

 
かつをぶし、にぼし
我が家の17年の歴史のなかで、お味噌汁のだしは少々の変遷がある。はじめは昆布とかつをぶし。次に昆布とにぼし(にぼしは頭と腹を取って、二つに割いて少し空炒りしていた)。外で食べたご飯のかつをぶしのだしの美味しさに、ふたたび昆布とかつをぶし。

そしてちょっと前にかつをぶしを切らしたので、にぼし。今度は晩に五尾ほど頭と腹を取って、割いたのを小鍋に入れて水に一晩漬けておいた。身がしっかりしていて、美味しそうだったので入れたままお味噌汁を作った。そういえば、九州の祖母の家もお味噌汁のだしはにぼしで、お味噌汁の中に入ったままになっていた。朝の台所のだしの匂いが、そのまま祖母の家の記憶になっている。

久しぶりのにぼしのだしのお味噌汁は、香ばしい匂いがとてもおいしい。これまでは食べ比べると、わたしはやっぱりかつをぶしのだしが好きだなと思っていたのだけど、むしろこちらの方が好きなくらいで驚いた。おまけに、前の晩にちょっと水に漬けておくだけ、という簡単さもうれしい。

近所に親しくさせていただいているNさんの家があって、ご実家が静岡でかつをぶし問屋さんをやっている。ときどきご自宅用のかつをぶしの注文をするときに我が家にも声をかけてくださって、一緒に注文させてもらう。これが本当においしくて、削りぶしはもちろん(子供たちはここの花かつををのせたお好み焼きが一番おいしいという)、だしパックは気軽にだしが取れるから忙しい時には本当に便利でびっくりしたし、ひじきや若布もおいしい。

今朝もばたばたとNさんの家にかつをぶしの注文書を届けに行った。黄金色のかつをぶしや、銀色にひかるにぼしのたくさんつまった包みを受け取ると、ちょっと長者のような豊かな気分だ。おいしいだしのものたちは、わたしの暮らしの芯の部分をしっかり支えてくれている。
 
西の青ねぎ、東のもやし
西の出身である。大学入学と同時に東に出てきた。言葉が違ったり(バスで若者が「〇〇するべ」と話しているのを聞いて、びっくりした)、車の気性が違ったり、いろんなことが少しずつ違っていた。食べ物も例外ではなく、少しずつ違っている。

先日大阪出身の人と名刺交換のあと世間話をしていて、西と東の食べ物の話になった。西と東のねぎの違いについて、おおいに盛り上がり、西の出身の二人の共通意見として、「薬味はやはり青ねぎに限る」というのに落ち着いた。

結婚してしばらく経つうちに、それぞれの好みや習慣はすり合わせられるものだけど、わがやは薬味のねぎについてはいまだ着地点が定まっていない。東の出身の夫は薬味といえば、やはり白ねぎの刻んだのが好きだという。そばやうどんの薬味にせよ、冷奴にかけるにせよ、もともとが色の乏しい料理だから、青いねぎはぱっと鮮やかで、辛味もおだやかでよいものだ。その日わたしは、青いねぎの薬味のよいところを少しの間語り合った。

東の食べ物でわたしが好きなのは、もやし。もやしは畑で育てていないだろうに、どうして西と東で違うのだろうと思うのだが、たぶん種類が違う。西のもやしは細くてしなしなしている。対して東のもやしは茎が太くて、りっぱでしゃっきりしている。東のもやしを初めて手に取って、「ひげ根をとりましょう」という工程の意味が分かった。

西の細いもやしではひげ根と茎の境目がはっきりしないうえ、全体がほそほそとしているので、ひげ根を取ろうとするとひどく大変なうえその成果が感じられないということになる。炒めるにはやはり東のもやしがおいしいが、お味噌汁にするには西のもやしが私は好きだ。

そのほかにもソース(ブルドックソースというものを知らなかった)や、なす、春菊なども、違うものだなあと思った食べ物。これだけ交通が発達して、鮮魚でさえすぐに冷凍して遠くまで新鮮なまま運べるようになったとはいえ、まだその土地土地の食べ物があって、違いがあるというのは豊かで楽しいことだと思う。たぶん、子どもの頃に食べたもので私たちの体や心はできているのだろう。きっとわたしのなかにも、ふるさとのほそいもやしであったり、長なすであったり、やわらかい春菊たちが積み重なっている。
甘い、しょっぱい
卵焼きのことである。
わたしの育った家は、卵焼きといえばお砂糖の入った甘いものだった。卵焼きにしょっぱいものがあるというのを知って驚いたのを覚えている。

お弁当といえば卵焼きなのは今も変わらないだろうが、卵焼きといえど千差万別だ。
ふっくら白っぽい厚いもの、すこし薄べったくて焦げ目がついているもの、なにやら刻んだ野菜などはいっているもの。うちの卵焼きは、白いお砂糖とほんの少しの塩だけのものだった。

わたしが作る卵焼きは、刻んだニラと桜えびの入ったものや、青ネギにチーズ入り、砂糖と塩とだし、砂糖と塩と牛乳少しなどいろいろだけど、やっぱりみんなが好きでわたしも落ち着くのが砂糖とほんの少しの塩だけの卵焼きだ。

そういえば外食にせよ、よそのおうちでの御呼ばれにせよ自分のうち以外でのごはんを食べる機会はこれまでたくさんあったのに、卵焼きを食べたことはない気がする。(お寿司などの厚焼玉子はあるけれど、あれはもう卵焼きとは違う気がする)そして、たぶんみんな自分の家の卵焼きが一番落ち着くんだろう。

今朝聞いた話。ちょっと具合がよくなくてお母さんが横になっているときに、お父さんが卵焼きを作ってくれた。お父さんは卵に砂糖を溶いて、じゃっ、とフライパンに入れてから上にハムをのせたそう。子供たちはちょっと残したみたい、という話だったけど、子供たちの好きなものをいっぺんに乗せたお父さんっていいなと思う。


 
トマト卵ごはん
我が家は週に一度休みの日にまとめて買い物をするので、自然週末になるにつれて食材がなくなってくる。だんだん冷蔵庫がすかすかしてくるのは、不安な気持ちになる反面、それはそれですがすがしいものだ。

さあ、ここにあるものをどう料理しようか、というのは工夫のしどころだからうまくいったときには、ちょっと心の中で喝采というほどの喜びだ。

さあ、休みの前日の今朝は冷蔵庫に肉も魚もない。そういうときの夕ご飯の助っ人メニューは「トマト卵ごはん」だ。これは何年か前に料理研究家の米沢亜衣さん(現在はご結婚されて細川亜衣さん)の料理教室で教わったレシピ。
トマトソースに卵を落とす、という料理なのだが、簡単でおいしく、飽きない。

わたしはターメリックライスを炊いて、これをかけて「トマト卵ごはん」にする。さらに、ご飯の上にチーズをのせてトマト卵をかけてもおいしい。

今日の夕飯はこのトマト卵ごはんと、キャベツの蒸し煮(たっぷりの刻んだキャベツを、ローズマリーとオリーブオイルで蒸し煮する)、さつまいものローストの予定。
料理の移り変わり
料理の移り変わりは、そのまま暮らしの移り変わりと言えよう。
どこの家庭でもそういえば最近あれ作らなくなったね、という献立があるだろうし、家族の歴史とともに品数や量もゆるやかに変化していく。

最近の我が家の変化といえば、外食の機会がぐっと減ったことと、お弁当を作る頻度が少なくなったことだろうか。
外食はまだ1歳の末っ子を連れて行くと、かえって疲れるし、選べるお店も限られるので自然に足が遠のいてしまった。
お弁当は子どもが必要なときは作るけれど、自分のはなんだかいいやという気持ちになっている。どうやら自分の作ったお弁当を食べたくなくなる時期が定期的にあるようだ。

朝、昼、晩と三度のごはんの献立の算段と買い物、こしらえて片付けて、という繰り返しはなかなかにエネルギーのいることだから、うまく力を抜いていかないと息切れてしまう。そういえば、家の仕事というのは、毎日毎日あたらしい橋を架けなおすようだと思ったことがあった。

ここのところお昼は仕事場近くのスーパーで調達したり、ときには近所に食べにいったりしていたが、続くと食べたい物が思いつかなくなるものだ。

今日は久しぶりにお弁当を持参した。献立はひじきごはんに錦糸卵と紅しょうがを散らしたものと、焼鮭、小松菜のおひたし。
昨日の夕飯に炊いたひじきの煮物の味が濃くなってしまったので、ごはんに混ぜてしまったというだけのもの。
とりたててどうということもないが、だからこそかくたびれず、するっと食べられるのが家のごはんのよいところだと思う。

お弁当を食べながら、夕ご飯の献立に思いを馳せて、世の中のお母さんというものは毎日毎日こんなふうにしているのだなと思う。さて、今夜我が家はなにを作ろうか。
 
休日の料理
毎日毎日の家のことは、疲れていたり忙しいとどうしても「やらねばならぬこと」になってしまう。食べ盛りの男の子三人で、一番下はまだまだ手のかかる1歳児だから、我が家の毎日は本当に目まぐるしい。

平日のごはん作りはいかに素早く、食材のむだなく(我が家は週末にまとめて食品を買うから)、みんなが喜ぶようなごはんを作るかで精一杯だ。だいたいは買い物のときに、一週間のおおよそのメインの献立のローテーションは考えている。

しかし、義務感のごはん作りはくたびれる。
それもそのはず、起きたらすぐに朝ご飯とお弁当作り、帰っても腰掛ける暇なんてなく今度は晩ご飯を作らなくてはいけないのだ。無理もないよなあ、と自分でも思う。

くたびれたなあ、気分を変えたいなあと思いながら週末、葉山のsunshine+cloudに立ち寄った。ここはわたしの好きなお店で、行くだけでわくわくする。(行くとやっぱり欲しくなったりもするのだが)
子どもを連れて、電車に乗って混んだ都心に洋服を見に行く、と考えただけで最近はげんなりしてしまうから、車でぴゅーっと行ける距離に好きなお店があるのは本当にうれしい。

2年くらい前にお店が移転して広くなってからは、カフェもあって、洋服だけじゃなくてガラスの花瓶やお花、本なども売っている。この日は、洋服を買うエネルギーがなくて、洋服もやっぱりすてきだからひとまわりみて歩いたけど、本を2冊といい香りのハンドソープ、ハンドクリームを買って帰った。

こういう小さくてきれいなものは、気持ちをはげましてくれる。
帰りの車の中でもハンドクリームの香りをかぎながら、今夜はこの長尾智子さんの本のレシピでごはんを作ろうと元気が出る。

きりっと冷えた白ワインを飲みながら、夏の夕方にゆっくり作ったこの日の献立は、
にんじんとさつまいものオーブン焼き、いんげんのチーズパン粉かけ、にんじん葉のお焼き、いわしのマリネ。
「ごはんはないの?」という子どもの声には、「欲しかったら冷やごはんあっためようか」と鷹揚に答える。

大きな木の皿、メキシコの絵皿、北欧の大皿にたっぷり盛り上げた料理を、まだ明るい時間からめいめい好きにつまむ楽しさに「そうそう、料理ってこんな楽しさがあったんだった」と思い出した。