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朝のおんがく
 デートの前に洋服を決めるように、
電車にもって乗る文庫本を選ぶように、
その日の朝にぴったりの音楽をかけるのは大事だ。

朝はこどもたちを学校や保育園に送り出してから、
エプロンのひもをきゅっ、としめ、その朝かけるCDを選ぶ。
これ、という一枚を決めて、一枚のCDをずっとリピートでかけるか、
その日、どうしてもこの気分だ、という一曲があれば、
そのひとつの曲を繰り返しかける。

だいたい出かけるまでの2時間、音楽をかけながら、
お皿を洗ったり、洗濯物を干したり、掃除機をかけたり、
雑巾がけしたりするのだ。
朝はなにしろ忙しいし、ちゃかちゃか仕事をかたづけたいから
ゆったりとした音楽じゃなくて、威勢良い曲がいい。

今朝かけたのは、高校生のころに買ったCDだ。
水音をたてながら皿をすすぎ、ところどころ一緒に歌う。
これまでで一番熱心に音楽を聴いたのは、
たぶん中学、高校のころ。

発売日を待ちわびたり、歌詞カードをなめるようにながめたり、
からだの真ん中に音楽をしみ込ませるような切実な聴き方は
すごいエネルギーだったのだなと、今になって思う。
歌詞のこまかいところも、ちゃんと未だに覚えていて、
口ずさみながら、当時それほど染まなかったところが
ぎゅんぎゅん染みこんでくるのが面白い。

誰が言ったのだったか、
「古今からの音楽や文学で、およそ人のあらゆる状況、感情は
すでに語り尽くされている。
こんなにつらい気持ちは初めてだ、と思っても、
それはもうすでに語られていることなのだ」
というのを思い出す。

失恋してあるく雨の道にも、
だれかをなくしてひとりの部屋の中にも、
ひこうきに乗っていく新しい町でも、
わたしにはちゃんとおんがくが待っていてくれると思うと、
楽しいではないか。

そう、冬の朝に家事をしながら聴くおんがくも
ちゃんとわたしのために用意されているのだ。


運命のにんにく
 なぜだかさまざまな物事が立て続けに起こる日がある。

つなわたりするように、あるいはダンスのステップを
ひたすら正確に踏むようにして、
ようようその日をやり過ごし、
体の芯までくったりするようなこころもちになる。

いっそ外へごはんを食べにいこうかと思うが、
ごはんなぞなんでもいいから、
もう、いちばん好きなわたしの家に帰りたいと思う。

寒いおもてから、しん、とした家に帰ってきて、
まずは身支度し、荷物をかたづけ、ストーブに火をつける。

途中のコンビニでパスタを買って帰り(ちゃんと売っていた!)、
冷蔵庫にあるもので簡単な夕ご飯にしようと思う。

こういうときは、頭がぼうっとしていて、
いつもにも増して、へんてこでくだらない妄想をしてしまう。

にんにくをむきながら、なぜか
「運命のにんにく」と言ってみたくなる。
「運命の恋人」だの、「運命の恩人」だの、
「運命の面接」だのはいかにも人生の不可思議な
流れやら、大きな転換を思わせるが、
恋人がにんにくになっただけで、
この珍妙さかげんになるのが愉快で、
さらにいろんな言葉を考えてみる。

今朝なにかにしようと冷凍庫からだして解凍しておいた、
三枚にひらいたイワシのことを思い出し、
すこし残っていた松の実もこうばしく炒って、使おうと思う。

「一生ものの金平糖」、
「自然派のスマートフォン」、
「いらいらしているマリモ」、
そんなどうでもよくて、
へんてこな言葉をつぎつぎにつぶやいていくうちに、
先ほどの体の輪郭がぼんやりして、
芯がふぬけになっていたようなのが、いくぶんしっかりしてくる。

大鍋になみなみと水を容れ、それを先ほど火を入れた
ストーブの上に載せて、
「大鍋の反抗期」とか
「肩こりのへび」とか
「イワシの逆鱗に触れる」とか
続けていくうちに、
イワシと松の実のパスタがたっぷりできあがり、
いつものごはんの時間となった。


干し柿の友
 ここ毎年、寒い季節になると干し柿をくれる友人がいる。

干し柿は大人になってから好きになったものの一つで、
わたしの育った家では、干し柿を食べる習慣がたぶんなかったとおもう。

柿は子どもの頃、好物だったけれど
(歯をたてるとがりり、と音のするくらい固いのが好みだった)、
夫が柿を好まなかったからか、今ではあまり食べなくなってしまった。

子どもの頃だったら、干し柿のあのよりどころのないたたずまいと、
強いような弱いような、なんとも形容しがたい味を
好きになれなかったかもしれない。

今では食後のちょっとした甘いものに、
ごはんまえのワインのお供にと楽しんでいる。

干し柿、と一口にいってもできばえには結構なばらつきがあるもので、
いやに水分が抜けきってしまったようなのや、
砂糖で煮詰めたようなやわらかさと質感のものや、
いやに大きくて、お大尽のようなりっぱな個別袋に入っていたりと、
それはもう様々である。

友人作の干し柿は、ゆるくよった紐に柿のへたが挟まれて
そのままほどよく干し上げられて、
宝付きの縄でももらったかのように、
じゃらり、と豊かな重みがある。

ときには、もうちょっと干してから食べてね、
との言葉が添えられたそれを、簡便なビニル袋でもらって帰るうれしさ。

台所のひきだしに大事にしまった袋から、これぞというときに
ひとつふたつつまんで頂くおいしさは、ちょっと他では味わえない。





ストーブの上の煮物
 冬、ささやかながらうれしいことのひとつが、
ストーブの上で煮炊きができること。
朝の忙しい時間、火口がふえるのはよろこばしい。
ごはんを炊いたり、湯を沸かしたりと
いつもコンロは満員なのだ。

この季節、ストーブの上にはいつも何かの
鍋やらやかんやらがいつも乗っている。

今朝は、朝ご飯の用意をしながら
夕ご飯用の煮物をストーブの上にかけておいた。
ずっしり太くてりっぱな大根と、鶏のもも肉、厚揚げの煮物。

朝ご飯を食べ終え、朝の仕事をしているうちに
ストーブの上で煮物はゆっくり煮えていく。
ふたをとって様子をみると、飴いろに醤油のいろが染み、
大根は鳥肌だったようになって、よく煮えている。
さあ、これで今晩は安心、という気持ちで出かける。

冬の寒い夜、無人の部屋に帰ってきて、
外套とてぶくろを外して、マッチでストーブに火をつける。
鍋敷きに移していた煮物の鍋を、再びストーブにのせて
温まるまでの間、ちょっと鷹揚な気分で味噌汁など
作ったりする。








その淵にあるもの
 物事のいちばん大切なものは、茫洋として捉えどころのない
空気のようなものだと思う。
空気のようなものだから、これ、と取り出せてみせることはできないし、
色合いも匂いも常に変化し続けている。

なにかに近づきたいと思うときに、その意味を問うのは、
きっとそれそのものから遠ざかってしまうことになると思うのだ。

一編の詩の意味を追うのは、大切でない。
意味はわからなくとも、その詩の音のひびき、
作り出されるかたちや色合いを感じ取れることのほうが、
ずっとずっとよいものなのだと、こころから信じている。

そのときには、茫洋とした手触りしか感じられなくとも、
後々の人生の場面で、ふいに鮮やかな景色としてかつての記憶が
よみがえることがきっとある。
その淵にあるものは、物事の意味ではなく
そのまわりにある空気のそよぎであり、説明のつかないものだ。

茫洋とした手触りのそれらが、わたしたちのなかに
幾重にも幾重にも折り重なっていく。
それはとてもうつくしい様だ。