ひと炊きひと炊き
2010.02.28 Sunday
毎日同じようにやっているつもりなのだが、
ごはんの出来栄えは少しずつちがってきてしまう。
ごはんを炊くのだって、研ぐのも水加減も
(これは目分量でいい加減だからかもしれないけれど)
つかっている鍋、火にかける時間も同じようにしているつもりが
やっぱり毎日違う。
たいてい出来栄えは蓋を取るとすぐにわかるので、
よいときは気を良くして、いまひとつのときは
みんな気づかないといいけどな、と思う。
いちばん上の子は敏感で、
「あ、今日のご飯おいしく炊けたね」とか
「今日のお味噌汁のだしが美味しい」とか
言ってくれるので、
台所をあずかるものとしては一層奮起して
毎日あれこれと小さな手間や工夫を重ねている。
梅の向こうの人
2010.02.24 Wednesday
わたしの台所にある窓の外には、
梅の木が枝を伸ばしていて、ちょうど今が見ごろだ。
梅の木は山の斜面の途中に生えていて、
この台所の窓からしかきれいに見ることはできない。
この梅の木をあたかも所有しているかのようで、よい気持ちだ。
台所に立つとこの梅が自然に見えてくる。
今は清浄な白い花がついているのが、もうすこしすると
ぽちぽち緑が見え始め、それを栗鼠が食べにくる。
葉はみるみる茂り、そのころには冬の枯れ枝が嘘のように
向こうの景色もぼったり閉ざすほどの緑になる。
その梅の木ごしに少し離れたマンションが見える。
そこの中ほどの階のきまった部屋のベランダに、
ときおり人の姿がある。
離れているのではっきり顔は見えないが、夕方や薄闇の頃に
老人がひとりぼんやり海のほうを眺めたり、
たばこをくゆらしたりしているようだ。
一年を通し、今のように咲きほこった花越しに、
濃い緑の葉越しに、あるいはさむざむしい裸の枝越しに
わたしは幾たびもその人を見かけてきた。
こんなにもうつくしい花にも、そのむこうの窓の中のわたしにも
すこしも気づいた様子もなく、その人は今日も現れ、消えた。
わたしが煮物の鍋の蓋を取ってのぞき、
再び蓋を閉めたそのわずかな間に。
車中のひとびと
2010.01.29 Friday
電車に乗った時、ついあたりをきょろきょろみてしまう。
どんな本を読んでいるんだろう、どんな格好の人がいるのか、
こんな顔で眠ってる、などなど興味は尽きない。
どうもさりげなくということができないたちのようで、
夫に時折「そんなにじっとみないんだよ」と注意される。
彼はわたしほどまわりが気にならないし、
第一隣の席の人が読んでいる本をのぞきこむなど失礼なので
やらないのだという。
もっともなことだ。
でも、とわたしは少し声を大きく上げて言う。
この間なんか、大柄なスーツを着たおじさんが防衛大学校の
過去問題集を解いていたんだよ。
妙齢の女性が読んでいた文庫本の一ページには
中世のヨーロッパの貴族らしい女性とかなわぬ恋をする男性が会話してて
一体何の本か全然わからなかったけど、すごくおもしろかったんだから。
びっくりするくらい猥雑な色遣いと言葉のならびの
スポーツ紙を読んでいる身なりのいい紳士の身なりを点検するのも楽しいよ。
列挙すればするほどなんだか、こちらは劣勢になっていき、
品よく自分の本にだけ目を落として車中で過ごす訓練を積むか、
はたまたさらりとさりげなく車中のひとびとを観察する練習をするか
いつも判断に迷っている。
sun&beach * - *
09:02 * - * -
一杯のお茶
2010.01.27 Wednesday
気持ちがしょぼしょぼと縮かんでしまうような失敗をした日、
夕方の少しの合間に、夕飯の足りないものを買いに出た。
気持ちがからだにぺたり張り付いたようで、
思わず通りすがりの近所の店に足を入れる。
ここへは時々すいた時間を見計らって、
ゆっくり本を読んだり書き物をしたりして過ごすことが多い。
その日は間髪をいれず、豆乳のあたたかいチャイを頼んで
両てのひらをあたためながら、ありがたいお薬のように
ゆっくりとでも途切れることなく熱いうちに飲み干した。
わたしのために淹れてもらった一杯のお茶は
どうしてこうもおいしくて気持ちをくるんでくれるのだろう。
帰り際店の人と、たわいのない会話を二三交わして、
すこし暗くなりかけた表へ再び出て行った。
八朔
2010.01.14 Thursday
果物のなかで、八朔が一番好きだ。
汁けがあるのに、すこし乾いた果肉の感じや、
包丁がなくても剥けるところ、
おもての皮を剥いた後の白い皮を剥く楽しさ、など
八朔をほめたたえる言葉は尽きない。
八朔にまつわる思い出は多い。
一人暮らしの学生の頃は、果物はどうしても必要な食品でないから
なかなか手が出せず、
スーパーの青果コーナーに八朔がならびはじめてから
「はしりのものは高いから」と値段がじりじり下がるのを、
じっと待っていた。
しかし、待ちすぎて気づいた時にはもう八朔の季節が終わってしまっていた。
以来、八朔に限っては見つけたときに買ってもよいと
自分にきまりを作った。
子どもを産むとき、陣痛の合間に夫が何か食べたいものはあるかと
問うた。
わたしは迷わず、八朔と答えた。
夫は、しばらくの後、すこし小ぶりで幾分水分が失われかけた
八朔をひとつ手に持って帰ってきた。
季節はもう、はつなつになろうかという頃だったのだ。
陣痛と陣痛の合間に、わたしはその八朔を余すことなくたいらげた。
八朔は大好きなのだけれど、敢えて難を言うならば
買って帰るときのその重たさだ。
買い物はたいてい歩いて、手に提げて帰るので
どうしても醤油が切れていて、大根も必要だ、という日に
八朔一袋などは買いづらい。
ならば、注文すればよいのだ、と今年は和歌山の八朔農家に
八朔10キロを注文した。
はて10キロとはどれくらいなのかわからないのだが、
これで八朔を食べはぐれることなく、
買い物で悩むことなく、心おきなく食後におやつに
八朔をたっぷりたべられると、そのことを思い出すたびに心躍っている。